セルフリーDNAシーケンシングに基づくがんゲノム診断
がんが発生すると、がんゲノムDNAが血中に漏出するが、そのDNAの次世代シーケンシング(NGS)解析により、がんの変異同定を行えることは、以前のGOクラブで紹介した。セルフリーDNAのシーケンシングの詳細については、その記事を参照してほしい。
血中には細胞内DNA以外のDNA(セルフリーDNA)が存在し、セルフリーDNAの多くは血球系細胞の死滅に由来するDNAである。がんが発生すると、がん細胞のアポトーシス(細胞死)によりがんゲノムDNAが血中に漏出する。このDNAは一般にcirculating tumor DNA (ctDNA)と呼ばれる。がん化はDNAの変異に起因するので、ctDNAの変異をNGS解析により同定できれば、がんを診断することが可能になる。また、がん細胞の変異により抗がん剤耐性を獲得した場合にも、がん治療に役立つ情報が得られる。もしステージ1のような早期がんにおいてセルフリーDNAシーケンシングによってがんの存在を検出できれば、がん治療に大きな変革をもたらすことになる。
しかしながら、セルフリーDNA中のctDNAの含量は少ないうえに、その含量の個人差が非常に大きい。さらに、微量のセルフリーDNAから精度高い配列情報を得ることも技術的に困難であることから、信頼性を担保した診断サービスの提供は容易ではない。このような背景から、多くの企業がしのぎを削ってセルフリーDNAシーケンシングによるがんゲノム診断の開始に向けた技術開発を進めている。
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Illuminaによる新会社GRAILの設立
Illumina, Inc. (Illumina) は、セルフリーDNAシーケンシングに基づくがんゲノム診断事業を推進する新会社GRAILを設立することを、今年1月10日に発表した。GRAILの設立にあたっては、Illumina自社からの出資を中心として、ARCH Venture Parters、Bezos Expeditions(Amazon.comの共同創業者・CEOであるJeffrey Preston Bezos氏が運営する投資会社)、 Bill Gates氏(Microsoft Corporationの共同創業者)およびSutter Hill Venturesから、100百万ドル(約120億円)以上のシリーズA資金を集めた。Illuminaのプレスリリースおよびインターネット・ニュース情報を総合すると、GRAILの設立意図は下記の通りである。
Illuminaは、ステージ2以降のがんだけでなく、ステージ1のがんでも、セルフリーDNAシーケンシングによりがんの早期診断を可能にする技術を開発することを発表した。最初の12か月は多種類のがんについてctDNA中の変異の検出に関する研究を行って解析ターゲット領域を絞り込んだ後に、2017年には有効性を明らかにする大規模な臨床試験を推進する。その後、FDA(Food and Drug Administration)から体外診断法としての認可を得て、診断事業を2019年に開始する予定である。
最初のターゲットとしては乳がんと肺がんに重点を置いており、臨床試験は3万人を対象として行う。セルフリーDNAシーケンシングでは非常に深く配列を解読する必要があることから、ヒト全ゲノム解析に換算すると、この臨床試験は40万人分の全ゲノムシーケンシングに相当する規模となる。これは、英国が推進している10万人ゲノムプロジェクトを大きく上回るものになる。この規模での臨床試験を推進できる企業はGRAIL以外には考えられないともいえるので、血液ベースのがんゲノム診断事業におけるGRAILの優位性は極めて大きいといえる。なお、がんゲノム診断以外の成果・知的資産はIlluminaに帰属するという契約になっている。
IlluminaのCEOであるJay Flatley氏の発表によると、セルフリーDNAシーケンシングのがんゲノム診断の料金は1000ドル以下にする予定であり、早期がん診断は2年置きくらいに実施することを想定している。市場規模については、ステージ2以降のがん患者の診断の市場規模は200~400億ドル(2.4~4.8兆円)であり、ステージ1の早期がん診断が可能になれば、その市場規模は1000~2000億ドル(12~24兆円)になると、Illuminaは予想している。1つの疾病に対する特定の診断手法に基づく事業が12~24兆円の市場規模になることは、日本の医療用医薬品の市場規模が約10兆円であることと対比すると、驚きである。昨年の初めに、米国ホワイトハウスが「プレシジョン医療の推進はゲームチェンジャーになる」というコメントを発表したが、まさに医療ビジネスが大きく急速に変革していく姿が見えてきたと感じた。
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血液ベースのがんゲノム診断に取り込む企業
血液ベースのがんゲノム診断事業の開始を目指している企業は非常に多い。以下に主な企業の取り込みについてまとめる。なお、本稿では「診断」という語を用いるが、ほとんどのがん変異同定サービスにおいて、がん発症者やがん患者の臨床研究で有効性が認められていないことに留意してほしい。
(1) Guardant Health, Inc.
セルフリーDNAシーケンシングに基づくがんゲノム診断技術の開発で進んでいる企業としては、まずGuardant Health, Inc. (Guardant;本社は米国California州Redwood City) が挙げられる。Guardantは、2名の元Illuminaの従業員が2012年に設立したベンチャー企業である。Guardant は、ctDNAの変異を高精度に同定できるセルフリーDNAシーケンシング技術(Digital Sequencingと命名)を開発し、本技術を用いた「がん変異同定サービス(Guardant360と命名)」の開始を2014年5月30日付で発表している。これまで世界中の2000人以上の医師が本サービスを利用していると言われている。GuardantはGRAILの競争相手の最右翼ともいえるが、がん早期診断を目指すGRAILとは目指す方向性が少し異なる。Guardantの診断サービスの特徴は、後期のがん患者のセルフリーDNAシーケンシング解析に特化し、がんの予後や抗がん剤の効果を予測することに重点を置いている。Guardantはごく最近7社のベンチャーキャピタルから約100百万ドル(約120億円)の調達に成功し、創業以来調達した投資額は約200百万ドル(約240億円)に達している。
前々回のGOクラブの記事「バイオデジタル革命を先導する企業-ゲノム診断」で紹介したがんゲノム診断のベンチャー企業であるPersonal Genome Diagnostics, Inc.(PGDx)もセルフリーDNAシーケンシングに基づくがんゲノム診断に取り組んでいる。PGDxは、多種類のがん遺伝子の変異を広く解析するサービス(PlasmaSelectと命名)の開始を2013年11月13日付で発表している。
Pathway Genomics Corporation (Pathway Genomics;2008年設立;本社は米国California州San Diego)は、セルフリーDNAシーケンシングだけでなく、遺伝性がん変異の検出ならびに心疾患や肥満に関する変異検出を含めた広い領域に渡って、NGS技術を用いたDTC遺伝子検査を提供するベンチャー企業である。Pathway Genomicsは、昨年9月に、セルフリーDNAシーケンシングに基づくがん変異同定のDTCサービス(CancerIntercept Detectと命名)を安価な料金($299~$699)で提供することを発表した。その後、本サービスは検査精度に問題があるとして、FDAから警告状がPathway Genomicsに送られた。また、Pathway Genomicsは、「IBMとの提携とIBMからの出資の受け入れ」を2014年11月に発表している。特に、IBMが開発した人工知能システムWatsonの自然言語処理技術を利用して大規模なゲノム情報を解析し、個々人に対するヘルスケアサービスを提供することを目指している。
(4) Natera, Inc.
Natera, Inc. (前々回のGOクラブの記事で紹介)はNGSを用いた出生前胎児ゲノム診断を得意とする企業であるが、出生前胎児ゲノム診断ではセルフリーDNAシーケンシング技術を用いているので、この技術の応用として「がん変異同定サービス」の提供を検討している。Natera, Inc. が開発した技術を用いた場合、5 mLの血液からセルフリーDNA中に存在する0.01%以上のctDNAの変異を検出できることが発表されている。
(5) Sequenom, Inc.
Sequenom, Inc.(前々回のGOクラブの記事で紹介)もNGSを用いた出生前胎児ゲノム診断を得意とする企業であり、セルフリーDNAシーケンシング技術の応用として「がん変異同定サービス」の提供を検討している。
カナダ発のベンチャー企業であるBoreal Genomics Inc.(2007年設立)は、セルフリーDNA中のctDNAの含有率を向上させる技術で優位性を訴えている。本技術については、synchronous thermal-electrophoretic separation法を用いてがん変異を持っていないDNAを極力除去してctDNAを濃縮することにより、がん変異同定率を向上させて0.01%以上のctDNAの変異を検出できることが発表されている。
Circulogene Theranostics(本社は米国Alabama州Birmingham)は昨年設立されたベンチャー企業である。 Circulogeneは、指先の穿刺により採取される微量の血液をもとに「がん変異同定サービス」を開始することを、昨年11月10日付けで発表した。Circulogeneの発表によると、同社が開発した独自技術を用いると、わずか20μLの血液から一般の手法で得られるctDNAの量の約100倍量のctDNAを得ることができるという。さらに、10種類のがんに関して50種類のがん遺伝子内の計3000種類のがん変異を同定できる性能を持つことも発表されている。このスペックが真実であれば、非常に有望な技術と思える。
(8) Trovagene, Inc.
Trovagene, Inc. (Trovagene;本社は米国California州San Diego)は1999年設立の企業で、昨年7月にNASDAQに上場している。Trovageneは、セルフリーDNAとctDNAが尿中に排出されることに着目し、尿中のセルフリーDNAのシーケンシングを行い、がん変異を同定する技術を開発した。本技術を用いた臨床試験も行い、昨年がんゲノム診断サービスの開始を発表した。
(9) QIAGEN
QIAGENはセルフリーDNAの精製キットの販売だけでなく、血液ベースのがんゲノム診断事業の重点化を発表している。一般に、血液サンプルでのがん診断を行う手法としては、ctDNAの解析だけでなく、circulating tumor cell (CTC) の解析、free-circulating RNAの解析、そしてエキソソーム中のmiRNAの解析の4種類が知られている。QIAGENは血液ベースのがんゲノム診断法については広く検討しているが、最近の発表を見ると、AdnaGenのCTC濃縮技術を買収するなど、CTCベースのがんゲノム診断の開発にも力を入れているようである。
(10) Biocept, Inc.
Biocept, Inc. (Biocept;1997年設立;本社は米国California州San Diego)は、CTCの濃縮技術に特徴を有するベンチャー企業であり、昨年2月にNASDAQに上場している。Biocept は、セルフリーDNAシーケンシングでなく、濃縮したCTCについて著名ながん変異の有無をシーケンシングまたはFISH(蛍光in situハイブリダイゼーション)を用いて検出するサービスを提供している。
Liquid Biotech USA, Inc.は、Pennsylvania大学で開発されたCTC単離技術をもとに、2012年に設立されたベンチャー企業である。2015年12月には、開発資金として日本の創薬ベンチャー企業であるオンコリスバイオファーマから2百万ドルの出資を得ている。Liquid Biotech USA, Inc.の発表によると、転移性がん細胞の検出に重点を置いているようである。
(12) Cynvenio Biosystems, Inc.
Cynvenio Biosystems, Inc.(Cynvenio)も独自のCTC単離技術を開発し、CTC中のゲノムシーケンシングを行い、がん変異同定を目指しているベンチャー企業である。Cynvenioは、昨年6月に、中国系のLivzon Pharmaceutical Groupなどから25.5百万ドルの資金(シリーズBの投資)を得た。そして、Cynvenioは、Livzon Pharmaceutical Groupの子会社であるLivzon Diagnostics と合弁会社を新設し、中国市場での診断サービスの開始も目指している。
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血液ベースのがんゲノム診断事業は戦国時代へ突入
セルフリーDNAシーケンシングに基づくがんゲノム診断(特にステージ1の早期診断)は、微量のセルフリーDNA中での含有率が極端に少ないctDNAを対象にして多様な変異を正確に同定する必要があるので、次世代シーケンシングにとっては「極限の精度向上への挑戦」といえる。1分子シーケンシングは魅力ある技術であるが、今までに精度の高い技術は登場していない。IlluminaのSBSシーケンシング技術は、1分子のDNAをフローセル上にトラップした後で1分子由来のDNA増幅物を配列解析するという原理であるので、結局は各DNA分子の配列を明らかにしている。マイクロ流路技術を有するAdvanced Liquid Logic の買収や半導体シーケンシング技術に関する最近の発表などを鑑みると、Illuminaは、ステージ1の早期でも多種類のがん由来のctDNAの変異を高精度に検出できると見込んだのであろう。GRAILの設立により、血液ベースのがんゲノム診断事業は戦国時代へ突入したといえよう。 |