Bio-Processor開発の背景
次世代シーケンサーのデータを中心とするオミックス情報だけでなく、ウェアラブルデバイスなどのデータを含めて多様なヘルスケア情報を活用したビジネスが急速に発展する状況になったことから、昨年の年初から、GOクラブでは新シリーズ「バイオデジタル革命の夜明け」の記事の掲載を始めた。最初の記事では、2008年の北京オリンピック・100m平泳ぎで北島康介と競った「アレクサンドル・ダーレ・オーエン」の急死を紹介した。彼の死因は遺伝性のアテローム性冠動脈疾患であったので、個人ゲノム解読を行ったうえでウェアラブル心電図デバイスなどを装着すれば、オーエンの命は救えたかもしれないと論じた。その時点で、シリコンバレーの数多くのベンチャー企業に加えて、Samsungなどの大企業もこの種のデバイスの開発をすでに進めていた事実を把握していた。そこで、オミックス情報活用事業以外に、モバイルヘルスケア事業でも革命が急速に進行すると予測し、新シリーズ「バイオデジタル革命の夜明け」を企画した。 |
ヘルスケア向け半導体センサーに関するこれまでの取り組み
Samsungは、約1年半前の2014年5月28日に、モバイルヘルス分野における新たな取り組みとして、オープンなハードウェア・ソフトウェアプラットフォームを提供する "Samsung Digital Health Initiative" の開始を発表した。Samsungは、この取り組みの中で、モバイルヘルス用のリストバンド型デバイス "Simband" とクラウドサービス "Samsung Architecture Multimodal Interactions (SAMI) " の提供を発表している。そして、Samsungは、Simbandが開発者向けに利用可能になることを、2014年11月12日に発表している。
Simbandの計測機能としては、(a) 心電図 (ECG; Electrocardiogram)、(b) バイオインピーダンス(Bioelectrical-impedance)、(c) 指尖容積脈波(光電式脈波、PPG; Photoplethysmogram)、(d) ガルヴァニック皮膚反応(GSR; Galvanic skin response)、(e) 皮膚温度(Skin temperature)、(f) 加速度センサー(Accelerometer)が挙げられている。なお、Simbandからの各種機能の計測データは、ネット経由でSAMIに送られ、厳格なセキュリティー下で管理・保存できるようになっている。
Samsungは、Samsung Digital Health Initiativeの推進に先立ち、モバイルヘルス分野の新技術開発を促進するために、The University of California, San Francisco (UCSF) と共同で、サンフランスコのUCSF Mission Bayキャンパス内に "UCSF-Samsung Digital Health Innovation Lab" を設立することを2014年2月21日に発表している。
また、Samsungは、別の取り組みとして、脳波(Electroencephalogram; EEG)を測定できる携帯ヘッドセットの開発を進めていることを昨年1月に発表している。脳波の測定は従来技術であるが、ストレスレベル、睡眠状態や他の脳の健康状態を分析することができる。このSamsungのヘッドセットは、新しい電極の開発により高品位の脳波データを取得でき、スマートフォンを介して脳波を解析できることが特徴である。さらに、このヘッドセットを用いることにより脳卒中を検出できることが明らかにされた。
|
Bio-Processorの概要
上述のSimbandの開発を進めている中、Samsungは、上述したSimnbandの計測機能のうち、上述の(a)から(e)までの5種類の生体データを計測する機能を実装した新しい半導体センサーチップ"Bio-Processor"の上市を、昨年12月29日に発表した。Samsungの発表によると、Bio-Processorの量産を進めており、今年上半期中に出荷を開始する予定である。
まず、機能(a)は一般の医療機関で用いられている心電図と同等で、すでに機能(a)を実装したウェアラブルデバイスも知られている。機能(b)については、体重計に付属している体脂肪率の測定に使われている。機能(c)は、Apple Watchなどの脈拍測定で利用されているものと同じである。機能(c)と機能(d)は昨年発表されたMicrosoft Band 2にすでに搭載されている。したがって、Bio-Processorには、新しい測定機能はないものの、上記の5種類の生体データを計測するためのアナログ・フロント・エンド(AFE)に加えて、Microcontroller unit (MCU)、Power management integrated circuit (PMIC)、Digital signal processor (DSP)およびeFlash memoryを統合的に組み込んだ "all-in-one"ヘルスケア用チップであることが最大の特徴である。以下に、Bio-Processorに搭載されている機能のうちで、機能(a)~(d)について簡単に説明する。
(a) 心電図 (ECG)
心電図は、体表面に置いた電極を用いて、心拍の間に心臓の筋肉の脱分極から生じる皮膚の小さな電気的変化を検出することにより、心臓の電気的活動状態を記録する方法である。
(b) バイオインピーダンス
バイオインピーダンスは、体に微弱な電流を流し、その電気的抵抗値を測定して体内総水分量を推定する方法である。そして体内総水分量をもとに脂肪以外の体組成を推定するとともに、体重の違いによって脂肪量を推定することができる。
(c) 指尖容積脈波(PPG)
指尖容積脈波は、LEDライトを皮膚に照射してヘモグロビンの増減変化を計測することによって得られるもので、交感神経の興奮状態や脈拍を分析することができる。
(d) ガルヴァニック皮膚反応(GSR)
ガルヴァニック皮膚反応は、皮膚を流れる電流の抵抗が皮膚の湿気で低くなることに基づいて皮膚の電気伝導度を測定する方法であり、心理的または生理的覚醒の指標として利用されている。
|
今後の展望
今年1月6~9日にラスベガスで開催されたCES (Consumer Electronis Show) 2016で、SamsungがBio-Processorの発表を行った。Samsungはその発表でBio-Processor搭載のプロトタイプ・デバイスとして、胸の皮膚に張り付けて心臓の状態を測定するパッチ型デバイス"S-Patch"を発表した。"S-Patch"は、Bio-ProcessorにメモリーとBluetoothを付加したデバイスで、スマートフォンと連動することによりデータ解析を行える。Bio-Processorは、このパッチ型デバイス以外に、今後Simbandのようにリストバンド型デバイスにも搭載されるものと予想する。なお、以前のGOクラブの記事「Quantified Selfとは」で、「AppleのApple Watchは、デザイン、ファッション性に加えて、ヘルスケア維持にも広く利用されるデバイスになると予想する。」と述べたが、その腕時計とは、SamsungのBio-ProcessorをApple Watchに搭載したようなデバイスを想定している。
Bio-Processor搭載のウェアラブルデバイスの主な用途は、個々人の健康管理や運動時のバイタルサイン(ヒトの生命維持に関わる情報)の測定であろう。また、以前のGOクラブの記事でも紹介したように、iPhoneやAppleResearch Kitを用いて、市民や患者が直接参加する疾病研究が始まっているが、Bio-Processor搭載のウェアラブルデバイスは、このような市民科学での利用も広がっていくものと予想される。そして、ヘルスケア用ウェアラブルデバイスが、「プレシジョン医療/ゲノム医療」や「個々人のヘルスケア情報を集積して解析するクラウドコンピューティング」と相互に連携し影響を与えながら発展することより、「ヘルスケア・医療産業のゲームチェンジ」につながっていくのであろう。
|