個別化医療の始まり
「Personalized Medicine(個別化医療)」という語が一般に広がり始めた時期は1997年である。1997年12月にScience誌の編集部が、Science 278巻5346号で、"BREAKTHROUGH OF THE YEAR - The Runners-Up"というタイトルの記事の中で、「個人のゲノム情報の違いに基づいた治療薬の処方」について言及したことが「個別化医療の始まり」の契機の一つであろう。また、PharmacogenomicsのパイオニアであるGualberto Ruano博士が、1997年に個別化医療ベンチャーであるGenaissance Pharmaceuticals, Inc. (Genaissance) を設立し、活動を開始している。Gualberto Ruano博士はGenaissanceを設立した後、ゲノム科学関連のコンフェレンスで、"Personalized Medicine" という語を用いてGenaissanceのビジョンを発表している。フランスのゲノミクスベンチャー企業であるGenset が製薬企業Abbott LaboratoriesとPharmacogenomics研究で提携したのも、1997年である。また、薬物代謝に関わる一塩基多型(SNP;Single Nucleotide Polyphisms)を検査するDNAチップ(DMETチップ)をAffymetrixと共同で開発したドイツのEpidauros Biotechnologie AG(Epidauros)も1997年に活動を始めている。
この頃は、第1世代シーケンサーやDNAチップ/マイクロアレイを用いて遺伝子・ゲノム配列の個人間の違いを調べる研究や技術開発が活発化し、個人ごとに薬の効果や副作用や投与量について適正な処方が可能になるだろうと期待が高まった。
疾病発症に遺伝的要因がある場合、遺伝子・ゲノム配列の違いに基づいて、個人ごとに効果的な治療を行う、あるいは個人ごとに薬の副作用や投与量が異なることから、遺伝子・ゲノムの情報に基づいて個々人にあった治療を施す医療を「個別化医療」と呼ぶようになった。個人の体型に合わせた衣服の製作との類似性から、「オーダーメイド医療」とか「テーラーメイド医療」とも呼ばれる。1990年代後半には、第1世代シーケンサーの発展やDNAチップ/マイクロアレイの普及から、技術的にSNPや遺伝子発現量を大規模に調べることができるようになったことから、SNPタイピングや遺伝子発現量測定により、個別化医療が実現できるだろうという期待が高かった。2000年初めにヒト全ゲノム情報が解読されたときには、10年後には個別化医療が実現されていると予測された。
なお、Pharmacogenomics(ゲノム薬理学)という語もよく見かけるが、この語は「ゲノム情報の差異に基づいて、薬の作用やADME(吸収・分布・代謝・排出)を研究する学問」を指す。ゲノム薬理学の研究成果は個別化医療の実現に大きく寄与すると期待されている。
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疾患共通変異仮説(common disease common variant hypothesis)
当時、個別化医療に注目が集まった理由の一つとして、発症頻度の高い疾病が遺伝性疾患である場合、すなわち疾病発症に関わる原因遺伝子の存在頻度が高いと考えられる疾患については、家系が異なっていても原因遺伝子や原因変異は同じであることが多いであろうという説が有力であったことが挙げられる。この説は、疾患共通変異仮説(common disease common variant hypothesis)と呼ばれる。SNPは集団内で1%以上の頻度で出現するDNA配列の差異が観察されるものであり、この疾患共通変異仮説と相まって、DNAチップによるSNPタイピングや第1世代シーケンサーによる遺伝子配列決定により、疾病の発症原因や薬物代謝と関係する塩基バリアントが容易に見つかるだろうと期待された。実際、発見されたSNPの数は100万を越えていたので、膨大な種類のSNPを使えば、個別化医療は実現できるだろうと予想した。 |
個別化医療の普及に関する課題
(1) 製薬企業側の課題 一般市民や患者は誰もが個別化医療の実現を望むであろう。一方で、個別化医療の推進には積極的でない製薬企業が多かった。その理由は、製薬企業にとっては、薬を投与する対象の患者が減り、売上が減る可能性があるからである。さらに、開発薬の臨床試験を行う場合には、患者を選別するための方法を開発したり、投薬に際しては診断も行う必要があることから医薬品の開発経費が増大することも、製薬企業にとってマイナス要因であった。これらの理由もあり、少数の抗がん剤を除いて、個別化医療を意図した医薬品の開発は期待通りには進んでいない。個別化医療が実現している医薬品の例としては、乳がん治療の抗体医薬であるHerceptinや抗がん剤(分子標的薬)Gleevecなどのコンパニオン診断薬が挙げられる。
(2) 医療機関側の課題
ゲノム研究の進展に伴う科学技術の急速な進歩に対し、医療機関側でゲノム情報を活用できる人材が少ないことが個別化医療を推進させるための問題となっている。特に、患者ごとに適切な医療を選択するとなると、医療従事者に求められる知識の量も大きく、医療従事者に対する教育も大きな課題となっている。
(3) 疾患共通変異仮説の破綻
上述のように、発症頻度が高い疾病については疾患共通変異仮説が適合すると考えられたが、以前のGOクラブでも紹介したとおり、遺伝的な要因が関係すると考えられる疾患について、疾患共通変異仮説に適合する変異の割合が少ないことがわかった。この問題が個別化医療を予想通りに進展させていない重要な要因の一つである。この問題は次世代シーケンサーによる個人ゲノム情報の解読を軸とするプレシジョン医療による新しい疾病分類により解決できることが期待されている。
(4) 個人ごとの薬物代謝の差異
個人ごとの薬物代謝の差異に関する要因は多く、疾患共通変異仮説の破綻と同じく、SNP情報だけでは薬の適正投与量の決定や副作用の有無の予測を十分に行うことができない。個人ゲノム情報に基づく薬物代謝予測技術は依然として未熟な段階にある。
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個別化医療の変遷
上述のような問題があり、個別化医療の普及は進んでいないし、Pharmacogenomicsを推進してきたベンチャー企業も思うように活動が進んでいない。個別化医療のパイオニアであるGenaissanceを例として、個別化医療の変遷を振り返ってみる。
1997年に設立されたGenaissanceは、製薬企業などと多くのアライアンスも成立させ、また当時の個別化医療に対する期待の高まりもあり、2000年にはNASDAQに株式公開を果たしている。GenaissanceはLark Technologies, Inc.(本社:米国テキサス州)を買収した後、2005年10月にClinical Data, Inc. (Clinical Data)によって買収された。Clinical Dataは、続いてIcoria Inc.とGenome Expressを買収し、GenaissanceとLark Technologies, Inc.を合わせて、Cogenics, Inc.(Cogenics)を設立した。さらにClinical Dataは、上述のDMETチップを開発したEpidaurosを2007年8月に買収し、Cogenicsに組み入れ、ゲノム薬理学分野のサービスを強化した。
株式会社ジナリスの提携先であるBeckman Coulter Genomicsは、Beckman CoulterがAgencourt Bioscience CorporationとCogenicsを買収し合併させて、2009年4月に設立した会社である。Beckman Coulter Genomicsは、その後DNAチップを用いたSNPタイピングによるゲノム薬理サービスを中止し、次世代シーケンシングやサンガーシーケンシングを用いたシーケンス解析サービスに集中した。
個別化医療の実現を先導してきたGenaissanceの流れをくむBeckman Coulter GenomicsがDNAチップを用いたSNPタイピングによるゲノム薬理サービスを中止したように、SNPベースの個別化医療は結局のところ実現することは困難であると評価された。そして、次世代シーケンサーの誕生と発展が新たなイノベーションの可能性を切り拓き、「プレシジョン医療」への挑戦の時代に突入することになるが、この話題については次回の「個別化医療について考える(2)」で紹介したいと思う。
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